第4回:遊佐かずしげ氏(メビウス・トーン)のアニメ「履歴書」《その2》

「アニメーターになる!」という夢を捨てきれず、一度は内定した建築系デザイン会社を辞退してしまった。というのが前回までのお話。

・・・と言うわけで、その後さっそくアニメーションの会社を探すことになるのですが、TVアニメは8歳年下の弟と一緒に見ていた程度なので業界のことは全く詳しくありません。とにかく近くの書店へ行き、アニメ関係雑誌で調べることにしました。

当時はアニメ大手5社と言われ、東映動画/東京ムービー/虫プロ/日本アニメーション/竜の子プロダクションが有名だったので、この中から選ぶことにしました。あれ?「サザエさん」のエイケンもありましたね。

アニメ業界関連の雑誌が珍しい時代で、あの劇場用「宇宙戦艦ヤマト」がブレイクするのはこの2年ほど後のことです。書店で出会った本はマンガ少年臨時増刊号「TVアニメの世界」という専門雑誌で、「アニメ14年の歴史を振り返る」特集号でしたが、その中のアニメーターを夢見る読み切りの漫画が刺激的で、大いにその気にさせられたことを覚えています。

結果的には竜の子プロダクションに就職することになるのですが、実は最初に選んだスタジオは東京ムービーで、当時阿佐ヶ谷駅から少し歩いた団地の外れにありました。選んだ理由は、きっと小さい頃から「ムーミン」や「巨人の星」「天才バカボン」「ルパン三世」など親しみやすい作品に触れていたからでしょう。

この頃にはアニメーションの専門学校は無かったので、どうしたらプロのアニメーターになれるのか知る術もなく、とにかく風景画や仏像を描きためたスケッチブックを片手に怖いもの知らずで売り込みに行った訳ですから、いい時代ですよね。

東京ムービーに押しかけ、少々緊張するも運良く部屋に通されました。数名のスタッフが仕事をしていた記憶がありますが、今で言うデスク(制作の偉い人)と思しき中年の男性が話を聞いてくれました。必死に絵を見せながら30分ほど粘ったのですが、彼の口から出た言葉は「さあ、帰った!帰った!」でした。つまり、追い返されてしまったわけです。見学さえできず、夕暮れの阿佐ヶ谷駅に向かう帰り道の自分はどんは顔をしていたのでしょうか? そもそも、アポもとらず募集もないところに、さほど上手くもない絵を見せられても先方は困りますよね。その男性は親切な方だったと思いましたが、絵の判る方に見てもらえなかったのだけは心残りでした。この手記を書きながら思い出したのですが、確か1人の女性が帰り際に「ルパン三世」のセル画を持たせてくれたのです。気の毒に思われたのでしょうね。

そして運命の出会い! 帰る途中に再び書店に寄ると月刊OUT増刊「ランデヴー」という竜の子プロダクションの特集記事を載せていた雑誌と出会います。表紙はガッチャマン5人の横顔。前回お話した実家の隣の青年、つまりイラストを描いてくださった布川ゆうじ氏のいるスタジオでもあり、次は竜の子プロダクションにトライすることにしました。なんてったって「ニャンコ先生」のスタジオですから。

今度は事前に面接希望の電話を入れ、国分寺市にある西武国分寺線「鷹の台」駅近くの林の中に建つちょっとオシャレな外観のスタジオを訪ね、管理部長が会ってくださり、なんと即、内定をいただきました。タイミングよく、翌春4月に全国から新人を募集して設立する養成所「竜の子アニメ技術研究所」の計画があり、その枠に入れていただけたのです。


宮本貞夫さんと30年ぶりの再会・新人時代の私・アニメ雑誌(©タツノコプロ)

・・・え? 支給額はたった5万円で6ヶ月間だけ?

これでいよいよアニメーターになれる!と思ったらそう甘いものではありませんでした。自活が条件だったので、高校卒業と同時に家を出なくてはなりません。当時、初任給が大卒で12万円、高卒で10万円ぐらいの時代に「竜の子アニメ技術研究所」は支給額5万円で、しかも6ヶ月の養成期間のみ。つまり才能や忍耐がなければクビという訳です。さっそく家賃18,000円の安価で古いアパートに引っ越しました。あの東京ムービーからの「さあ、帰った!帰った!」をバネに6ヶ月間頑張るしかありません。初年度に全国から集まった新人は10名ほどでしたが、養成期間はクリンナップ(綺麗に線を描く)と動画の課題の連続でした。これが面白い! 画力に自信があったので毎日が楽しかったのを覚えています。そして無事養成期間をパスしました。講師陣も豪華で、「ガッチャマン」の宮本貞夫さんをはじめ現役バリバリの先輩たちからたくさんのことを学ぶことができました。

振り返れば、その直後に一気にアニメ専門学校ブームが到来し、どの学校も高額な学費をとる時代になるのですから、自立を条件としていた当時の私にとって、結果的には運が良かったと感じています。40年後の今でもこの業界に残れている訳ですから。

さて、せっかく入った竜の子プロダクションでしたが、なんと3年後にヘッドハントを受け、未知の大海原に飛び出すことになります。NHK短編アニメーションにたどり着くまでの紆余曲折や東京ムービーとの再会、そして、その後、大学教授になる経緯は・・・? 次回もお楽しみに。

遊佐かずしげ(メビウス・トーン)

ゆさ かずしげ
東京生まれ・タツノコプロ出身 アニメーター兼監督
元・東京工芸大学芸術学部アニメーション学科教授

主な参加作品:
「うる星やつら」「まんが日本昔ばなし」「タッチ」「楽しいムーミン一家」「にほんごであそば」「ピタゴラスイッチ」「みんなのうた」「ペコロスの母に会いに行く」「陽炎の辻」、テレビCM「レノア柔軟剤」「Z会」など多くの短編作品を提供。今年でプロ40周年。