第23回:佐藤皇太郎氏(サトリデザイン)のアニメ「履歴書」《その1》

新型コロナウイルス(COVID-19)の影響により、制作現場や教育現場で混乱が続いています。皆さんの職場はいかがでしょうか? 心よりお見舞い申し上げます。

練馬アニメーションHPは、関係者の方々に原稿を執筆して頂くことで成立しているサイトです。しかし、ただでさえアニメ業界は忙しいのに、新型コロナ対策で忙殺されている現在の状況下では、原稿の依頼をすることも申し訳なく、ついに “伝家の宝刀” を抜くことになりました。と言っても大したことではなく、練馬アニメーションHPの「編集長 兼 雑用係」である私が、自らの履歴を明らかにするだけなのですが…。ともあれ、こうして時間稼ぎをしている間に、コロナ禍が落ち着いてくれることを祈りつつ、ペンを執りました。

さて、私・佐藤皇太郎は現在、小さなデザイン事務所(Satory Design)を構え、短編の映像制作やグラフィックデザイン、ウェブデザインなどをしています。美術と技術の重なる領域が得意分野で、プログラミングも大好物です。教科書を3冊(共著ですが)出版しました。関東学院大学と東京造形大学で非常勤講師もしています。

せっかくの機会なので、これまでの半生を振り返り、今の自分を形作っている「構成要素」を探しに行きたいと思います。

子どもの頃から図画工作は好きでした。

幼稚園時代、ダイヤブロックを与えてさえいれば、いつまでも飽きることなく黙々と遊び続けていた、と後に両親から聞きました。絵画教室にも通っていたようですが、先生から与えられたテーマを無視して、大きな画用紙に堂々と「丸ノ内線」を描いたことだけは覚えています(どうしても描きたかったのでしょうね)。

小学校時代、「何でも出来ること」や「何でも揃っていること」に魅力を感じるようになります。ひとつのことだけに集中するのではなく、総合的なのが格好良い!と。そうは言っても、もちろん本人の能力は追い付いてきません。相変わらず体育は大の苦手でしたし、勉強も飛び抜けて良くできるわけではありませんでした。そうそう、エレクトーンを習い始めたのも小学生の頃でした。この時期にちゃんと音楽の勉強ができたのは、今から振り返ると良かったと思います。楽譜アレルギーが無くなったし、鍵盤楽器限定ですが指は動くようになったし、後の(シンセサイザー・マニアを経て)DTMによる劇伴制作にもつながっていきます。

中学校時代、親の仕事の都合で転校することになり、都合4つの中学校を渡り歩きました。さすがに4つは多かった。友達ができてもすぐに別れてしまうし、学校ごとに教科書は違うし、学習の進度も違いました。世界史をほとんど勉強できなかった代わりに、江戸時代を3回も勉強することになりました。

そんな中でも、中学1年の時、貴重な経験をすることができました。技術の授業で、各自オリジナルの本棚を作ることになったのですが、設計通りに作れず、全く別の形状にして提出したら、通信簿が最低の点数になりました。そもそも設計も親に手伝ってもらったり、電動糸鋸が恐くて作業から逃げていたというヘタレだったのですが、この失敗(と、厳しかった先生の採点)が後の自分の人生に大きくプラスになりました。他人の力を借りずに独力でやること、設計と実装のバランス(ちゃんと実装できるものを設計する)、自分の可能性を広げるために挑戦すること、などを強く意識するようになりました。やはり、失敗(と、叱ってくれる先生)は大切だなと思います。最近の若者諸君、正々堂々と失敗しよう。そしてそこから学ぼう!

同じく中学1年の理科の授業は、先生から一方的に講義が行われるのではなく、先生が出した問題に答えたい生徒が黒板のところでプレゼンし合う、という大学のゼミのようなスタイルでした。これは面白かった。自分のアイデアを披露したい生徒が「だいたいいつも同じメンバー」になってしまうのが玉に瑕ですが、その中に私も入って級友たちと激論を交わしました。2年生になると転校して別の中学校へ通うことになるのですが、1年生の時と同じように(そういう授業が中学の標準だと思っていたので)黒板の所でプレゼンしたら、皆に笑われました。そして、二度とプレゼンすることは無くなりました。

あと、中学1年の3学期になるまで「試験のために勉強する」ということを知らなかったので、それまで「佐藤君は授業中まじめに聞いているのに成績が悪いね」「そうだね、アハハ…」と笑っていたのですが、成績が悪い原因がやっと分かって、中学2年からは試験勉強をするようになりました。それからは順調に成績が伸びていきました。

親とお金を出し合ってNECの PC-8001 というパソコンを購入したのも中学の時です。最初のうちは、御多分に漏れず、雑誌に掲載されているゲームプログラムを片っ端から打ち込んで遊んでいるだけでした。でも、もともと新しい遊びを創作するのが好きだったので、そのうち既存のゲームでは満足できなくなり、「ゲームを自作したいから」という理由でプログラミングを勉強するようになります。

高校時代には、PC-8001 を使ってオリジナルのゲームを自作できるようになっていました。と言っても、プログラミング言語は BASIC ですし、CPUクロックは 4MHz(諸々の要因により、実質 2MHz 程度)なので、たかが知れているのですが、それでも楽しかったですね。そのうちに興味がゲームそのものから開発環境の方に移っていき、簡単なインタプリタ言語やコンパイラ言語を BASIC で実装して悦に入るようになりました。これらはコンピュータ雑誌『RAM』(廣済堂出版)に掲載されました。高校生テクニカルライターの爆誕です。ちゃんと原稿料も出ました。嬉しかったですね。それから30年後に、映像制作やCGの教科書を執筆することになるのですが、やってることはあまり変わっていませんね。適性のある分野では、すでに高校生の頃には才能の一端が現れているはず、というのが経験から得た持論です。

その後、「どこまで安価に作れるか?」をテーマに、Z80 のワンボードマイコンを設計・実装し、これも『RAM』に載せて頂きました。このまま将来はコンピュータの技術者にでもなるのかな〜? と思っていたのですが、高校の友人に勧められて、劇場で『風の谷のナウシカ』を観たんです。まさか、この1本が人生を変えることになるとは…。

次回は、ナウシカでアニメーションに開眼したところから、ナムコ時代までをお話しします。

佐藤皇太郎(サトリデザイン