第24回:佐藤皇太郎氏(サトリデザイン)のアニメ「履歴書」《その2》

前回は、幼稚園時代から、現役高校生ライターになるところまでをお話ししました。

それまでもテレビアニメを普通に楽しんではいたのですが、特にアニメファンというわけではありませんでした。ところが、高校で友人に強く勧められて、私としては珍しく映画館でアニメーションを観たんです。宮崎駿監督の『風の谷のナウシカ』を。

衝撃でした。アニメーションというのは、こんな表現が可能なのか!
深く作り込まれた設定と人間描写。生物の独特な造形、美しい背景、ダイナミックな動き。そして、印象的な音楽…。物語の世界を丸ごと創り上げているではありませんか!

これこそ自分が進むべき道だ、と思いました。が、その一方で、大好きな理科と社会の勉強も続けたい。

割と迷わずに結論が出ました。「大学で好きなことを好きなだけ勉強しよう」と。アニメーションを作るには広範な知識が必要になるはずです。でも「今の自分には全く欠けている」と絶望的なほどに自覚していました。政治学・経済学・社会学・文学・語学・哲学・数学・物理学・化学・生物学・地学・農学・工学・医学・音楽・美術……小学校時代に価値を感じていた「何でも出来ること」は、将来アニメーションを作るために必要だったのではないか?
勉強したいときに勉強したいことを勉強する。これは人生を成功に導く鉄則だと思います。

一浪して、筑波大学・農林学類(現、生物資源学類)に進学しました。他大学では農学部に相当します(あまり知られていないのですが、農学部なら理科と社会を両方勉強できます)。筑波大学を選んだ理由は、
(1)他の学部の授業も自由に受講でき、単位も取得できる。
(2)生物物理学の研究室がある。
(3)国立の総合大学。
の3点です。

(1)は当時の大学としては珍しかったのですが、絶対に譲れない点でした。私は興味の幅が広く、1つの学部や学科の中だけでは満足できなくなるのが目に見えていました。筑波大学であれば、モグリの学生ではなく、正規の受講生として(文系から理系、芸術系まで)興味のある授業を取りまくることができます。大学における真のカリキュラムは自分で組み立てるのです!

(2)高校時代、最も好きな科目は生物だったのですが、植物の情報処理に興味が出て来ました。当時(1980年代)も、植物ホルモンなど生化学的にはある程度分かってきていたのですが、生体電位など生物物理学的には未開拓で、面白そうだと思ったんですね。実際には、生物物理学の研究室は農林学類ではなく生物学類にあったのですが「お隣」ですし、何とかなるのではないかと…。実際、生物物理学の講義科目も実験科目もひと通り受講することができて大満足でした。卒業研究は、農産工学の研究室で「植物生体電位計測法」をテーマに論文を書きました。学会で発表できたのも良い経験になりました。

(3)親から「大学へ行くなら、国立じゃないと学費が払えない」と聞かされていましたので、素直に従いました。入学金15万円は『RAM』の原稿料でちょうど支払えました。当時、国立大学の授業料は年25万円でした(4年間で百万円)。やはりこれ位でないと、貧乏人には厳しいと思います。3年生の時に父が病死してしまったのですが、4年生の授業料は免除して頂き、非常に助かりました。教員1人あたりの学生数が少ないのも国立大学の有利な点です。少人数教育で丁寧な指導が受けられるのは、控え目に言って最高ですね。

総合大学のメリットは、どの学問分野でもひと通り専門家が揃っている、という点です。特に、文学については副専攻と呼べる位にまで取り組み、3年生の時には自主的に「卒論」まで提出しています。日本昔話のオノマトペに関する研究だったのですが、大量の資料(方言のままの昔話)を読み込んだ経験が、現在の物語創作にも生かされていると感じています(文学については、卒業後も研究を続け、論文や記事の数は他の分野よりも多いです)。その他にも、経済学、情報文化論、科学哲学、美学、絵本論など、他の学部の専門家による講義を “定額” で聴き放題なのですから夢のようです。面白そうな授業は、片っ端から受講しました。

大学のサークルは人形劇を選びました。アニメーションを制作しているサークルもありましたが、おそらく作画作業だけで手一杯になると思いましたし、色々な物語を作って公開(上演)するには、人形劇の方が短いサイクルで多くの経験を積めるだろうと考えたためです。とはいえ、私は未熟な荒くれ者で、皆に迷惑を掛けてばかりいました。本当に申し訳なかったです。ここでも多くの失敗から成長することができました。

母は病弱で働けないので、父なき今、大学を卒業したら働いて、家にお金を入れなければなりません。なので、大学院への進学という選択肢はありませんでした。就職先として考えていたのは、やはりアニメーション関係の仕事です。しかし、アニメ業界は即戦力を求める時代になっていて、私のような経歴の人間が入る余地は少なくなっていました。うまく潜り込めたとしても、収入面での心配もあります。そこで一計を案じました。

当時、黎明期だったCG業界に目を付けたのです。TV番組のオープニング映像やCMなどで、ようやくCGが使われ始めた時期です。コンピュータなら腕に覚えがありますし、今後、CGアニメーションが大きく成長するのは間違いないと確信していました。

日本のCGプロダクションの草分けであるJCGLを引き継いだナムコに入社できたのは良かったのですが、配属先がCG映像制作の部署ではなく、CGゲーム基板を設計する部署だったので驚きました。「役員面接の時と話が違うじゃないか!」と抗議したのですが、「君のことをどうしても(自分の担当部署に)欲しいという役員がいてね」の一点張り。たしかに、私のような若造の主張など、会社組織の中では芥子粒(けしつぶ)のようなものです。今さら就活をやり直すわけにも行きませんし、当面のお金も必要ですから、ゲーム会社の技術者として働くことにしました。

こうして私の社会人としてのキャリアは、(全く想定外の)ハードウェアのエンジニアとして始まりました。
それでも、業務用ゲーム機「リッジレーサー」に搭載されることになる、業界初のテクスチャ対応リアルタイム3次元CGシステム基板(SYSTEM22)を開発すべく、優秀な人々が集まっていて毎日が刺激的でした。私が作ったカスタムICも2つ、業務用リッジレーサーに載っているんですよ。プログラミングのできるアニメ関係者は多いですが、ICを作ったことのあるアニメ関係者は少ないと思います。

ハードウェアエンジニアとしての仕事はここまでで、あとはソフトウェアエンジニアとしての仕事がメインとなりました。SGIのグラフィックス・ワークステーションから自社の3次元CGゲーム基板をリアルタイムに制御するプログラムを書いたのを皮切りに、今で言う「ゲームエンジン」(Unity や Unreal Engine などが有名ですね)に相当するものを25年前に作ろうとしたのですが、プロジェクトが頓挫してしまいました。原因は、私の実力不足。会社にも迷惑を掛けてしまいました。ただ、この時期に、CGとプログラミングに関して、理論と実装の両面で、徹底的に基礎から学ぶことができたのは幸運でした。後の教科書執筆や講義などにも生かされています。

その後、画像認識技術の研究を始め、「カメラdeタロット」という初期のカメラ付きケータイ用コンテンツや、カード認識技術(「メロンコード」というオリジナルの2次元コード)などを開発し、製品化されました。おかげさまで「ドラゴンボールヒーローズ」は大ヒットしましたし、これでようやく会社に恩返しできたかな、というところです。ちなみに、画像認識の研究では、脳科学や認知科学の文献を読む上で、大学時代に専攻した生物科学が役に立ちました。実験や実習を通じて「体感的に知っている」ということの重要性は、もっと高く評価されるべきだと思っています。

あれ、アニメーションはどうなったんだ?

大丈夫、忘れていませんよ。次回は、社会人になってからのアニメーション関連の活動と、現在に至るまでをお話しします。

佐藤皇太郎(サトリデザイン