第10回:工藤秀子氏(スタジオキャッツ)のアニメ「履歴書」《その3》

【新たな道】
東京ムービーに入って、12年半が経ちました。
その間に結婚して2人の子供をもうけ、仕事もベテランになって来ていました。
女性が働き続けるのが困難な時代に、必死に仕事を続けて来たのですが、辞めることになってしまいました。辛い決断です。主人の母が、ガンのため寝たきりとなり、嫁としてお姑さんを介護しなければなりませんでした。当時はまだ介護補助は無く、24時間介護を家族でしなければならない状況でした。

脳腫瘍の手術を終えた母に合わせ、昼夜が逆転した生活が始まりました。隣の部屋にトレスの机を置き、介護をしながら自宅で仕事を始めました。近所の知り合いから「仕事を教えて欲しい」と頼まれ、家の前のアパートの1室で仕事を教えることになりました。同じく東京ムービーを辞めた友人が彩色を教えて、私がトレスを教えて、その後も段々と人が増えて来ました。トレスマシーンも買って、東京ムービーから仕事を貰って、練習しながら1年が経ちました。「しっかり覚えたら、それぞれ家でやろうね」と話していたのですが、結局このまま一緒に仕事をやりたい、とスタジオキャッツという仕上げ会社を立ち上げることになってしまいました。その後、母は亡くなり、本格的に仕上げ会社としてスタートしました。

経営経験も無いまま、みんなで内職ということで始めた仕事だったので、営業もしなければならないし、スタート時点から大変でした。

東京ムービーで宮崎さんが「名探偵ホームズ」を始めると、色指定に山浦さんがなったので、スタジオキャッツに仕上げの仕事を回してくれたのですが、ハンドトレスの仕事ばかりくれるのです。当時はトレスマシーンの時代だったので、トレスマシーンでは対応できない大判ばかり回されました。後で計算すると、材料費の方が高いのです! そんな状況でした。「これでは、とてもやれない」と値段の高い劇場作品を営業してくるようになりました。しかし劇場作品も結局、外注出しは難しい絵柄ばかりで枚数が上がらないので、中のスタッフからも「これでは仕事にならない」と苦情が来る有様。本当に経営が下手な会社でした。

唯一、辞めた時から版権用のセルの仕事を受け、値段が高いので何とかやって行けたという状況でした。その後は、値段の高いコマーシャルの仕事を中心に回すようになっていました。

【マッドハウスとの出会い】
スタジオキャッツとして軌道に乗ってきた頃に、劇場作品をやっているマッドハウスの仕事をすることになりました。初めての作品は、手塚治虫先生の「ユニコ」です。

マッドハウスは虫プロから独立後、東京ムービー作品で協力会社となっていました。その後、経営者が変わり、丸山正雄さんが社長となり、劇場作品など数多くの作品を作っている会社でした。丸山さんは「ルパン三世」の企画書を書いた人です。営業に優れたプロデューサーとして、アニメ業界で活躍されています。

「ユニコ」の風の妖精はハンドトレスなので、大判セルだけではないし、色も単純で、スタジオキャッツにとって良い仕事となりました。それがきっかけでマッドハウス作品を手伝うようになりました。劇場作品は始めの頃はゆっくり作業しているのですが、最後の2ヶ月くらいはほとんど泊まり込みでの仕事となり、スタジオキャッツの運営と両方で、かなり大変でした。

その頃、日本のアニメ業界は韓国に下請けとして仕事を出すようになっていたので、マッドハウス作品でも韓国での作業が多くなってきました。
マッドハウスは、海外での作業の仕方が、他の会社と違っていました。当時は、動画と仕上げのみを海外に出していましたが、動画検査や色指定も現地に送り込み、完全な状態での上がりを国内に戻していました。

そんな中、新人の色指定が韓国で作業していて、丸山さんから一緒に様子を見に行って欲しいと言われて、2泊3日のスケジュールで韓国に行きました。
行ってみてビックリです。バイクの話のビデオ作品でしたが、ほとんど出来ていない状況だったのです。これでは間に合わない、ということになり、結局1ヶ月半、そのまま韓国で仕事をすることになってしまいました。韓国中のできる会社すべてに声をかけ、手伝いをお願いして、ほとんど毎日徹夜で必死に作業して、やっとぎりぎりで間に合わせました。それをきっかけにマッドハウスは、原画の力もあるDRムービーという会社と現在に至るまで長い付き合いを続けています。

【そして海外へ】
アニメ作品が多くなってきたのに伴い、海外外注への動きが出て来ました。
各社が韓国へ仕事を出していた時期に、スタジオキャッツでも韓国へ仕上げの外注を頼むようになっていました。1987年のことです。

始めのうちは韓国へ仕上げを送っていたのですが、当時、仕上げは絵の具やセルなどの材料も送るため、下請けとしては「仕上げだけではやれない」という状況になり、動画と仕上げの仕事を出すようになりました。その後、さらに仕事が増えて来ると、日本の下請け会社からだけではなく、元請け会社からも仕事を出すようになって金額が上がってしまい、下請け会社では採算が取れなくなってきました。

そんな中、マッドハウスから中国への視察の依頼がありました。
中国では国営会社しか認めていない時代でしたが、天安門事件があり、中国から資本の引き上げが起きていた丁度その頃、台湾の人が上海で初めての有限会社としてアニメの会社を作ったのです。中国も、その時代に外国資本の有限会社を認めざるを得なかったようです。

上海市内を抜けて、工場地帯の一角にその会社はありました。会社の前は大きいゴミ捨て山でした。市内も暗くて、昔の東京のような、所々ボーッと電灯が点いているだけの町でした。車はほとんど戦前の車ばかり走っていて、戦前に逆戻りした様な不思議な感じがしました。今の上海から想像もできないような薄暗い町でした。

亜細亜堂から「今、試しに出しているので、上がり具合を見て欲しい」とのことだったので、会社で状況を聞くと「まだ始めたばかりで、ほとんど枚数ができないので、亜細亜堂の仕事は間に合わない」ということでした。亜細亜堂からは「何とかアップさせて欲しい」という無理な注文が来ていたのです。結局、そのまま徹夜で、動画は尾澤直志さんが手伝い、仕上げは私が手伝い、必死で何とか帰りの便に間に合わせて、視察というか「仕事」になってしまい、ホテルで寝たのは行った日と帰りの前の日だけ(2泊5日!)になってしまいました。

会社はできたばかりで、まだ練習中だったのです。人材は、募集したら200人くらい集まり、優秀な人を採ったということなので、今後に期待できるとのことでした。
その後、日本から、亜細亜堂とマッドハウスの両方から検査(というより指導)に人を送りながら、その後も仕事を出して行くようになりました。スタジオキャッツも一緒に仕事を出すようになったのです。

このようにして、中国はもとより、フィリピン、インドネシアなどにも手を広げ、日本のアニメ業界は海外抜きでは成立しない状況になって来ています。
スタジオキャッツとしても、その後、自社の下請け会社を作ることになり、中国に深く関わって行くことになりました。(おわり)

工藤秀子(スタジオキャッツ)