第19回:佐藤スーツ博之氏(ダンデライオンアニメーションスタジオ)のアニメ「履歴書」《その1》

割と早くからアニメ業界を目指したものの、紆余曲折があり、転々としながら今の立場になりました。良くも悪くも(かなり広く浅くではありますが)業界内の仕事をひと通りやってきた経験もありますので、これからアニメ業界を目指す人に少しでも役立つようなお話ができればと思っています。
一番読んで欲しい人は「今、高校生でアニメ業界を目指している人」です。アニメーターになるとどんな感じなのかなぁというイメージが分かる1つの例として読んで頂けると幸いです。

■アニメーターを目指したキッカケ
皆さんいろんな理由があると思うのですが、自分の場合は、子供の時に幾つもの名作アニメを観て感動し、「世界観にのめり込むことができるアニメは、こんなにも人の心を動かす力があるのか。自分も是非やってみたい!」という割とスタンダードな理由でした。
ガンダム世代ですが、アニメーターを目指すことを最も意識した作品は10歳の頃に観た「巨神ゴーグ」です。安彦良和さんが原作、監督、キャラクターデザイン、さらには一部コンテや作監まで担当されたTVシリーズでした。当時は1年アニメが多い中、26話という話数でしたが内容にまったく無駄がなく、クオリティも落ちることなく、子供心に本当に感動しました。できることならいつか直接、安彦先生にお会いしてお礼を言いたいレベルです。
それ以降、どうやったらアニメ業界で仕事ができるのだろうかと思い、アニメ雑誌を買ったり、親のトレーシングペーパーを貰って設定をなぞってみたり、動画用紙を買ってテレビから写し取ろうとしたらぼやけて全然上手くいかなかったりしていました。

■アニメーターになるための進路
今ではアニメーションの専門学校も増え、大学でも取り組んでいたりと、いろんな方法を選ぶことができるようになったと思います。
自分は普通に小中高と進みましたが、当時アニメーターに関係する専門学校は地元に2校しかなかったので、あまり迷うこともなく専門学校に進みました。ちなみに専門学校を出てみた感想としては、本当にアニメ業界に進む覚悟があるのかどうかを自分自身で判断する期間、と考えた方が良いかもしれませんね。その他よく言われるように、友人を増やしておくと良いと思います。後々その繋がりが、お互い協力しあえる関係になる可能性がありますから。
アニメ業界を目指している人は、専門学校を出て就職するというのが一番スタンダードかとは思います。ですが、遊びたい盛りでもあるので、うまくバランスを取りながら、この期間をしっかりと将来を見据える時間として使ってもらいたいですね。

ちなみに(だいぶ忘れてしまいましたが)当時のクラスの人数は30~40人ほどいて、1年が終わる頃にはかなり減っていた印象です。半分くらいかな? 2年に入って就職活動などが始まりましたが、学校は名古屋だったので、東京へスタジオ見学を兼ねた数日のツアーを行って、幾つか会社を回りました。

■アニメーターになって
そのうちの1社、スタジオライオンズ(注:野球チームではありません)に入社しました。スタジオジャイアンツ(注:野球ではないです)の関連会社で、ジャイアンツは主に原画、ライオンズは主に動画と分業していました。両親への説明が大変めんどくさかったです。ちなみにスタジオの場所は江古田でしたが、自分が初めて上京して住んだ家は練馬にありました。

ここではちょうどTVシリーズの仕事が始まるということで、結構大人数が採用されました。最初、謎の地下空間で説明を受けた覚えがあります。一瞬、何かの宗教か集団勧誘でもされるのかとヒヤヒヤしてましたが、説明によると、やはり人数が多いこともあり1席を3人くらいで順番に使うというシステムで、週に2回ほど出社し、それ以外の期間は自宅作業を行いました。
最初に渡された仕事は印象深く、今でも人気の丸メガネ熱血男が主人公の「マクロス7」でした。放送開始時は普通に家で見ていたアニメに関わるという貴重な経験をすることができました。
そして初めての仕事が、ミレーヌがイカのような敵ロボットに握られているカット。次は、ガムリンが真横で歩くカット。「行けんじゃん、行けんじゃん!」と思っていた矢先、ロボットが手前から奥にバウンドしながら吹っ飛んで行くカットが来たのは良い思い出です。

その後、週単位、月単位で人が減っていき、あっという間に入れ替え制だった席も自分専用となりました。
ここで触れてよいのか不明ですが……初任給は 27,000円でした。1枚約150円~160円くらいだったので、月に約180枚程度で、25日働いて1日7枚ほどの作業量。なかなか厳しいですね。ですが、最初のうちは慣れもあるので、月単位で描ける枚数は増えていき、月産約500枚くらいまでは、それなりに伸びていったと思います。途中で単価が150円から160円に変わって、それで何とか 75,000円。当時は「爆走兄弟レッツ&ゴー!!」が仕事の大半を占めていた記憶があります。その後は作品内容にも影響は受けますが、最大枚数にも限界が見えてきて一番多くてもギリギリ 700枚いったかどうかくらいだったと思います。

お金や枚数の話ばかりしていても夢が無いので……。良い思い出としては、やはり初めて自分が描いた動画がTVで流れたとき、一瞬ではありましたが、とても嬉しかったですね。次に初クレジットでしょうか。やはり名前が載ってこそ周りの人に言えるのでこれも嬉しかったです。
仕事の中身の楽しさとしては、良い原画が回ってくると否応無しに燃えてくるものがあり、動画作業をしているだけで楽しかったり。あとは、中割指示があいまいだったにも関わらず、ちゃんと良い動きを自分で作れたときなどですね。

そんなある日、「そろそろウチもデジタル化に対応するからやセル画無くなるよー!」という話が突然、浮上したのです。

■デジタル化の波
今思うと、自分がアニメーターになった頃は、業界がデジタル化する前の最後の世代だったと思います。当初は普通に動画を描き、それをセル画に転写して、仕上げさんがアニメカラーで色を塗るというものでした。デジタル化の開始時期に関しては多少曖昧なところもありますが、割と突然だった印象です。

  • デジタル化前:鉛筆線は最低限の強弱なども入れつつトレス。影用の色トレスは、全て朱色で引きます。影部分は、肌は水色、服はピンクや黄緑、ハイライトは黄色など表から塗ることにより仕上げさんが判断する方式でした。
    ※スタジオによってルールは違います。
  • デジタル化後:鉛筆線は均一にして途切れは厳禁。色トレスは基本、赤と青のみ。そして一番手間なのは、影部分を指定する塗りは裏側から。表に塗るとスキャン時にその色が出てしまうからです。

大きな違いはこんな感じです。
動画マンも大変ですが、動画チェックは裏側の色はトレス台でも見え辛く、細かなところがちゃんと塗り分け指示されているかなどの確認はかなり大変でした。

その後、特にデジタル化を意識し、経験できたのは、アニメ版「パンツァードラグーン」でした。この作品は、日本発のフルデジタルアニメーションという触れ込みのOVAで、CG合成なども積極的に取り入れた意欲作でした。今とは違っていろんな苦労の垣間見える作品で、敵の戦艦などが爆発して沈んでいくシーンでは、戦艦はCG、爆発の炎と煙は作画で、それそれが頑張っているものの若干ズレながら動いていくので何とも言えない気持ちになりました。

次回は、動画チェックから原画へ、そしてアニメ専門学校の教員を経て、A-1 Pictures の立ち上げに参加するまでをお話しします。

佐藤スーツ博之(ダンデライオンアニメーションスタジオ

さとう すーつ ひろゆき
株式会社ダンデライオンアニメーションスタジオ チーフプロデューサー
代表作:マクロス7(動)、爆走兄弟レッツ&ゴー(動・検・原)、劇場版とっとこハム太郎(CGパート絵コンテ)、ゾイドジェネシス(CG)、おおきく振りかぶって(制作)、ゆゆ式(CD)、ACTORSシリーズ(企画・原案・CD)、ロボマスターズ(P・宣)、あかねさす少女(制作統括)、神巫詞-KAMIUTA-(企画・原案)